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【時を超えて追いかけたい政宗公】

 

とにかく「この日この時、政宗公が何処に居たか・何をしていたか」が知りたくて追いかけているデータです。

抜けている部分をご存じでしたらぜひ情報をお寄せください。特に各地の寺社に詣でた話や記録などを探しております。

文章内には磯部の主観が入っている部分が多々ありますのでご注意くださいませ。(※2015.9.6.一部追加。)

(4/14 気付きましたが新暦旧暦が整っていません。最終的にはすべて旧暦でまとめます) 

◆@ogipix さまとその先輩さまより「伊達政宗歴史館」からの情報いただきました、ありがとうございます。

 

1567(永禄10)年:0~1歳 米沢城

 

8月3日(新暦9月5日)

出羽国米沢城で爆誕。後に狩野探幽によって描かれる「日の丸の旗と月型の前立」は、誕生時に父伊達輝宗(てるむね)から政宗が立派な統領に育つことを願って与えたものと云われる。幼名は梵天丸。

 

1571(元亀2)年:5歳 米沢城?

 

※日時確認

天然痘により右目を失明。

 

1572(元亀3)年:6歳 米沢城から資福寺へ

 

※時期確認

虎哉宗乙禅師が政宗の教師として資福寺(当時山形県米沢市→現在は仙台市北山)に招かれる。

 

1577(天正5)年:11歳 米沢城?

 

※日時要確認

織田信長から輝宗へ、越後の本庄繁長と共に上杉謙信を討つよう依頼された書状が現存。(仙台市博物館蔵)

 

11月15日

元服し藤次郎政宗と名乗る。

 

1579(天正7)年:13歳 米沢城?

 

1月※日付要確認

三春(福島県三春郡)の田村家藩主清顕(きよあき)の娘愛(めご)姫を正室に迎える。坂上田村麻呂を祖とし血筋もよく、且つ当時より美少女であったと云われる。愛姫12歳。

 

1580(天正8)年:14歳

 

◆父輝宗と上山(かみのやま)城主(山形県上山市)上山満兼が連合し叔父最上義光を攻める。

母義姫、輝宗の陣地に乗り入れ停戦要求。

(※一回目)

※日時確認

 

1581(天正9)年:15歳 米沢城?

 

4月(新暦5月)※祈願・着陣日付要確認

金山城(現在の宮城県伊具郡丸森町)対相馬戦にて政宗初陣。※相馬某氏の名確認

戦勝祈願のため丸森にある梁川八幡へ立ち寄る。

 

秋 ※日付要確認

叔父最上義光宛に手紙

「恋しさは 秋ぞまされる千歳山の

     阿古屋の松に 木隠れの月」

義光返歌

「恋しくば たづね来よかし千歳山

     あこやの松に 木隠るる月」

 

1582(天正10)年:16歳 米沢城→杉目城

 

4月1日

杉目城(福島城)から梁川八幡へ詣でる。

 

4月3日

杉目城へ帰る(伊達政宗卿伝記史料より)

※いつまで滞在?

 

6月2日※政宗の在所要確認

◆本能寺の変

京都本能寺にて明智光秀が信長に謀反を起こす

 

1584(天正12)年:18歳 米沢城?

 

※日付要確認

叔父最上義光宛に手紙を送る。

 

10月※日付場所要確認

家督相続にて伊達家17代を継承。父輝宗隠居

 

1585(天正13)年:19歳 米沢城主

 

7月11日(新旧確認)

 

8月※日付場所要確認

官位従五位下美作守を名乗る。

 

8月

小浜城(福島県二本松市)城主大内定綱討伐のため支城の小出森城を攻略開始。※定綱は1585年の年明けには戻ってくるはずだったが帰らず寝返り。

 

8月27日

小出森城(福島県中通り北部の阿武隈川東部)の城主菊池顕綱をはじめ全城兵の殺戮が行われ、「小出森城の撫で斬り」と言われる。

8月27日

叔父義光宛に「500人殺りました」と当日付けの手紙で報告。家臣には200人、虎哉和尚には800人と伝えている。正確な数字は不明。

 

11月※日付要確認※政宗はいたか。

二本松城主畠山義継により輝宗殺害。「栗之巣の変事」と云われる。

 

11月17日(新暦1月6日)

人取橋の合戦

 

11月22日

小浜城へ帰る

※虎哉和尚に怒られたのはいつか。

 

1586(天正14)年:20歳 8月まで小浜城滞在

 

※時期要確認

【官位】左京大夫

 

※時期要確認

二本松城攻略

 

9月25日 政宗筆の書状あり

 

12月15日 政宗筆の書状あり

 

 

1588(天正16)年:22歳

 

1月※日付確認

大崎合戦(vs大崎・最上)

義姫による和議

1589(天正17)年:23歳 

 

※日時確認

※摺上原前後は新暦旧暦要確認。

政宗が佐竹の配下小野崎城主(現茨城県ひたちなか市)小野崎照通に離反を進める密書を送る。

 

(新暦?4月)
蘆名家の老臣のひとり、猪苗代城主猪苗代盛国と内応確約済み。

 

4月(新暦5月)
小野崎照通が佐竹氏に謀反。
それにより佐竹から蘆名への援軍がなくなり、伊達家に有利に。

4月23日(新暦5月26日)
米沢城より出陣。

4月24日(新暦5月27日)
大森城に入る。

 

4月29日(新暦6月1日)
片倉景綱を猪苗代に、原田宗時・新田義綱を桧原に遣わす。※指示はどこから?米沢?

この時猪苗代盛国が蘆名氏に反旗を翻す。

 

5月5日(新暦6月7日)

蘆名義広の居城・黒川城(会津若松城)の支城である安子島城(郡山市磐梯熱海町)を攻略。

 

5月6日(新暦6月8日)

高玉城(郡山市熱海町)を攻略。

 

(新暦?6月)※日時確認

引いたと見せかけて会津とは正反対の相馬方支城の駒ヶ嶺城などを攻略。

 

5月29日(新暦7月?)

陸奥国安積郡の片平親綱宛に鉄砲衆を派遣する手紙を送る ◆写真あり


6月5日(新暦7月17日)
摺上原の戦い(福島県磐梯町・猪苗代町)

蘆名義広を磐梯山麓の摺上原で破り黒川城(現鶴ヶ城)をゲット。蘆名氏は滅亡。

 

7月7日
※伊達日記より
「天気:雨 今日は田村殿、原田殿、桑折殿、大枝殿など政宗様にお礼を述べる人たちが参りました。夜になると政宗様は唐人らと花火をしました。そして、歌も歌いました。」

 

10月26日

須賀川城攻撃のため出陣

 

1590(天正18)年:24歳 会津黒川城

 

4月9日
小田原参陣会議

※景綱の「秀吉=ハエ」のエピソード


4月21日
中島伊勢守宗求宛に「連れていけなくてすまん、留守の間よろしくね」の
書状送る

 

5月
浅野長政から小田原参陣の催促


5月9日
小田原に向けて会津出立

 

6月5日

小田原着 箱根底倉に留め置き

 

6月9日午前10時

小田原にて豊臣秀吉(55歳)に謁見

同日昼12時

会津黒川城の成実に首尾良しの手紙を送る

 

6月10日

秀吉より茶の湯もてなしと刀下賜

※刀の詳細要確認

 

6月11日

小田原を出立し黒川城へ

 

10月16日
岩手沢城で住民蜂起


10月24日
大崎葛西の一揆勢は政宗の出陣を聞き佐沼城の囲みを解く


10月26日
黒川軍下草城にて氏郷と会談。11月16日より一揆鎮圧の約束

 

11月15日
須田伯耆が裏切り、祐筆曾根四郎助が密書持参


11月24日
佐沼城攻略・木村親子救出

 

1591(天正19)年:25歳

 

1月27日

清州に滞在

 

3月

【官位】侍従、越前守

 

5月21日

米沢へ帰城

 

6月16日

一揆討伐のため米沢を発つ

※詳細と決着はこれからkwsk

 

8月6日

二本松に着いた秀次に謁し、一揆首領の処分を命ぜられる

 

1595(文禄4)年:29歳

 

7月15日

秀吉から謀反の疑いをかけられた関白・豊臣秀次が切腹。政宗も関与を疑われる。
秀次より側室に望まれていた最上義光の娘・駒姫(政宗の従姉妹)は処刑の憂き目に。

1596(文禄5・慶長元)年:30歳 岩出山城


9月5日

近畿地方をM 7.0〜7.1の地震が襲う
京都や堺で死者合計1,000人以上
指月伏見城天守や石垣、東寺、天龍寺、二尊院、大覚寺等が損壊。余震が翌年春まで続く

10月
木幡山の指月伏見城築城の時に秀吉から長船

光忠の一振りを拝領。
その翌日秀吉が冗談で「盗まれた」と騒ぎ、

小姓たちに政宗を追いかけさせる。
この一振り
が後に「燭台切光忠」と名付けられる。

 

1598(慶長3)年:32歳 

 

7月4日(新旧確認)
豊臣秀吉より主だった大名が伏見城へ招聘される。※メンバーの中に政宗が居たか確認。

 

8月18日(新暦9月18日)
秀吉死去
死後に形見分けされた刀「鎬藤四郎」をいつ受け取ったか確認

 

【鎬(凌)藤四郎(しのぎとうしろう)吉光】

管領細川家→?→信長→秀吉→政宗→政宗の死後、仙台城改築の許可願いの代わりに徳川家へ献上→明暦の大火(振袖火事)にて焼失。現存せず。

 

1599(慶長4)年:33歳 仙台城?

 

12月8日(新暦1月23日)

嫡男忠宗(幼名虎菊丸)誕生。母愛姫

 

1600(慶長5)年:34歳 仙台城?

 

5月4日

上杉景勝討伐の命を下す

 

7月24~25日

白石城攻略

上杉家臣 甘粕備後守清長の守る白石城を攻め落とす。宮城県白石市の白石川北岸に政宗陣場跡有り

※7月24日桜田元親に命じ、河股城攻撃による上杉軍足留めを画策

※7月25日小山にて家康が評定を開く。茶番。

8月11日

白石城出発

8月21日

北目城を経由し岩出山へ帰還

8月22日

元細川家家老 鉄砲名人の稲富伊賀守祐直が岩出山へ

8月中旬※日付要確認 重要!!!

家康より百万石の御墨付書状

結果が解せぬ。解せぬ。

9月15日(10月21日)

【関ヶ原合戦】

石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍、合わせて約15万の兵がぶつかった美濃国関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)での戦い。主戦場の関ヶ原決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われた

9月17日

叔父最上義光の護る長谷堂へ留守政景を送る

※義姫からも「援軍早よ」の手紙多数

10月1日

◆長谷堂より上杉軍撤退

※政宗in仙台城

1601(慶長6)年:35歳 若林城・岩出山城

 

1月28日より

青葉城および仙台城下町の建設。

 

9月10日

岩出山を発ち京の伏見屋敷へ向かう

9月18日

江戸着

9月19日

江戸発

9月末

彦根着

10月5日頃?

伏見屋敷に到着

 

1604(慶長9)年:38歳 

 

※時期確認

虎哉宗乙の勧めにより松島円福寺の復興開始

 

 

1609(慶長14)年:43歳 

 

※時期確認

松島青龍山 瑞厳円福禅寺改修終了

以降伊達家代々の保護を受ける

 

1614(慶長19)年:48歳

 

1月18日(新暦2月26日)

◆叔父の最上義光死去:山形城

※対応・在所確認

 

2月6日

◆義光葬儀慶長寺(後の光禅寺)に葬られる

※対応・在所確認

 

10月11日

◆大坂冬の陣

※愛馬五島、老衰のため政宗の出陣に付き添えず仙台城より自ら落下。死亡。

 

11月3日

◆常長、ソテロら慶長遣欧使節団が、ローマ教皇パウルス5世に謁見

 

11月20日

◆常長らにローマ市民権証書が授与される

 

1616(元和2)年:50歳 仙台城?

 

4月17日(新暦6月1日)

◆徳川家康公薨去

※居場所行動要確認

 

1617(元和3)年:51歳 仙台城?

 

※日程場所要確認

嫡男忠宗と家康公養女振姫の結婚

 

1618(元和4)年:52歳 仙台城?

 

6月15日

【官位】正四位下

 

10月9日

大崎地方へ狩りに出る

 

1620(元和6)年:54歳 仙台城

 

11月21日(新旧要確認)

江戸城石垣修復の褒賞として、相州広光の名刀「大倶利伽羅」が徳川家より下賜される。

この時政宗は仙台に居たため江戸詰め中の忠宗が受取。

※刀についての諸情報はこちらにもあります

 

1621(元和7)年:55歳 仙台城?

 

※時期要確認

仙台藩江戸上屋敷・本屋敷類焼

1626(寛永2)年:60歳 仙台城?

 

8月19日

【官位】従三位権中納言

1630(寛永7)年:64歳 仙台城?

 

6月17日

1601(慶長6)年に稲富入道一夢より相伝を受けた砲術指南書「一夢流秘伝書」を遠藤玄信に授ける

 

8月

「出づるより 入る山の端はいづくぞと 月に問はまし武蔵野の原」の句を詠む

 

1632(寛永9)年:66歳 仙台城?

 

1月24日(新暦3月14日)

徳川秀忠死去

※政宗の行動確認

 

1月30日(新旧確認)

馬売買に関する掟を出す

 

1634(寛永11)年:68歳 仙台城?

 

※時期要確認

仙台米の江戸輸出開始。

 

4月30日

日光廟に詣でる。

※東照宮の状況と供物確認

 

1635(寛永12)年:69歳

 

7月

仙台藩江戸上屋敷・本屋敷類焼

 

1636(寛永13)年:70歳 4月まで仙台城滞在

2月24日※場所確認

土井利勝・酒井忠勝宛銀子借用状

前年7月に仙台藩江戸上屋敷・本屋敷類焼の為、幕府側より資金提供の提案あり。

それに対しての借用書。

 

4月18日

経ヶ峰に墓所を定める

 

4月20日

仙台より参勤交代出立

※移動中のレポ要探索

 

4月28日 仙台藩上屋敷滞在

入府。絶食状態続く

 

5月21日

家光公本人の見舞い有り

 

5月24日(6月27日)

卯の刻江戸上屋敷(千代田区日比谷公園)にて死去

 

5月26日

嫡男忠宗への遺領相続許可

 

6月3日

霊柩が仙台覚範寺に到着

 

6月4日

遺骸を経ヶ峰に埋葬。貞山禅利大居士、瑞巌寺殿と号す。翌年1637年10月、忠宗により霊廟瑞鳳殿が建立される。

1918(大正7)年11月18日

【官位】従二位追贈

 

1974(昭和49)年

瑞鳳殿発掘調査

※1931年国宝指定 1945年戦災で焼失

 1979年に現在の建物が再建される

 

2013(平成25)年3月25日

★起請文発見

1589年に書かれた、佐竹氏からの裏切りを促した政宗筆の密書が、東日本大震災で被災した茨城県の土蔵から発見

 

2013(平成25)年6月19日

遣欧使節資料が記憶遺産としてユネスコ登録-文科省

2011年5月に日本ユネスコ国内委員会が推薦していたものが認められる。同時に「御堂関白記」(国内最古であり藤原道長自筆の日記)も認定。

 

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【参考サイト・文献他(敬略称)】 まつしま伊達政宗歴史館 仙台市博物館総合案内 最上義光公没後四百年その生涯と事績 由来試考遠藤家御鉄砲衆足軽組 国立歴史民俗博物館展示資料

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